A Journey To Surrey Quays

Half the truth and half the lie

 疲れすぎて眠れぬ夜のために/内田樹



 個人的に最近、気になっている内田先生の本です。気になった所を引用、抜粋。


ぼく自身はぜんぜん「我慢」というのものをしない人間です。ですから思春期になって、親子対立の徴候が出たところで、すぐに家出をしてしまいました。


 家出というのは、一人暮らしというニュアンス。厳密な一人暮らしはした事がなくて、実兄や、友達といわばルームシェアの様な事をしていたみたい。

絶望的な女性の希少性を考慮すれば、ほとんど確実に自分のDNAは次世代には残せない。この存在論的不安がフロンティアにおけるアメリカ男性の原体験なのです。


 これは、19世紀のアメリカ西部の話。当時女性は東部にとどまっていたので、西部のフロンティアまでいった女性というのは少なかったみたい。この存在論的不安の為に用意されたのが西部劇という、ホモソーシャルな物語だったという流れ。

人間が仕事に求めているのは、突き詰めて言えば、「コミュニケーション」です。ただ、それだけです。

 

 そのまま。

村上春樹の『羊をめぐる冒険』の冒頭は「私」がある女の子の葬式に行ったことを淡々と記述するところから始まりますが、その中で不意に「あの60年代」ということばが出てきます。このときの「あの」という遠称は、どこかに「ここ」を想定しないと発せないことばです。そして「ここ」はまぎれもなく、小説を語る一人称の「ぼく」と今その小説を読みつつある「君」が「一緒にいる」時点なのです。


ぼくは何度かこの小説の冒頭を読み返してみて、「どこ」でぼくが「小説の外」にいる読者である状態から「小説の中」の世界に入り込んでしまったのかを点検したことがありますが、それはこの「あの」という指示形容詞の箇所だったのです。


コミュニケーションの巧みさ。

どういうわけか分かりませんが、「何でも好きなことを、好きなだけ書いていいよ」という無条件の場合よりも、制約を受けた方が創造意欲が湧くということは人間の場合にはあるのです。


 定型について語る部分で。

ある著書の「愛読者」というのは、その人の「新しい話」を読みたくて本を買うわけじゃない。むしろ「同じ話」を読みたくて本を買うんだと思います。


 同じものの反復作用が快感。