A Journey To Surrey Quays

Half the truth and half the lie

 ひとりでは生きられないのも芸のうち/内田樹



 装丁とかすると、ちょっと女性向けなのかも? けど、やっぱり面白い。またもや抜粋。

最初の数年は「あの人よりは自分の方が高給だ」とか「自分の仕事のほうが高い評価を得ている」というような同族間の比較がモチベーションを維持するかもしれない。だが、そのようなものはいずれどこかで消えてしまう。そのあとの長い時間は自分自身で自分の労働に意味を与えなければならない。


 これ、すごい当たり前だけど、本当のことですね。結婚、子供を持つ、という事の意味がここにあったりして。

小説を書かない作家、音楽を演奏しない音楽家というのが論理矛盾であることはどなたにでもわかるはずだ。「いいから、まずなんか書いて見せてよ」とあなただって言うだろう。「それを読んでから、どの程度の作家だか判断するから」労働だってその点では同じである。

労働=創造的でない仕事、みたいな意味あいで言ってて、ここから更に、

能力や適正は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見される。<中略>

能力があるかどうかはご本人が判断するのではなく、ふつうはまわりの人間が判断するからであり、たいていの場合、外部の能力評価の方が本人の自己評価よりも客観性が高いのである。第一、芸術創造よりも、労働の方がずっと達成度についての判定は「甘い」。

と、若い人が、「創造的な仕事」を目指すことに苦言を呈す。

とりあえず、「自室に引きこもっているよりも、集団の一員である方が生き延びる上では有利だ」ということに気づいた点をプラス評価しよう。だが、その次に、どのような集団に帰属すべきかというむずかしい問題が続く。むずかしくてわからないので、知的肺活量の足りない若者たちは国民国家というような政治幻想に飛びついてしまう。

 若い人の間に蔓延する薄っぺらいナショナリズムについて言及した部分。これに対して帰属すべき集団を選ぶヒントとして、集団のサイズを考えろ、と答えを出してる。

献酬という習慣は私たちの社会からもう消えてしまったが、それでもまだ宴席において、「自分のビール瓶」を抱え込んで手酌で飲むのは非礼とされている。自分のグラスが空になったら、面倒でも隣の人のグラスにビールを注ぎ、「あ、気がつきませんで……」と隣の人がビール瓶を奪い取って、こちらのグラスに注ぎ返すのを待たなければならない。「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。


 個食についての文脈でこう述べる。

ご飯がきちんと美味しく食べられる相手であれば、エロス的関係においても同じような同期が期待できるということを私たちは無意識に知っている。だから、とりあえず「飯、食いにいかない?」ということになるのである。


 これには凄い納得。

落語「雛鍔」の話を持ち出す。「雛鍔」というのは、大名の若君が庭で銭を拾うのだが、何しろ生まれてから現金というものを見たことがないので、それが何であるかわからず供の三太夫に尋ねるという話である。三太夫は「不浄なものでございますからおとり捨て願います」と答える<中略>

とりあえずこの逸話から私たちは金は不浄のものであるので、できるだけ手を触れないほうがいいという人類学的常識が江戸時代まではひろく市井の人々にまでゆきわたっていたことを知るのである。


 子供にお金を持たせるということについて。

世界には無数の「陋習」があり、無数の性的禁忌がある。そのひとつひとつに向かって「愚かな真似はやめなさい」と告げて回ることそれ自体が啓蒙的な実践たりうると私は思わない。実効的に啓蒙的であるためには、「陋習」に代わって、同一の人類学的機能を代替する別の擬制を提示しなければならないと思うからである。


女人禁制となっている場所にはそれなりの理由がある、ということ。

「自立」を煽るとマーケットサイズは拡大する。これが八〇年代バブル期の商売人たちが経験から確信したことである。だから、この時期からメディアは(自立するだけの社会的能力のないものたちにまで)家を出てひとりで暮らすことをうるさく推奨したのである。


 自分らしさが、煽られた原因。

「静物」のことをフランス語ではnature morteと言う。「死んだ自然」である。写実画は「死んだ自然」を描く。


 絵画におけるエロスとタナトス

「交換」の起源的なかたちは「キャッチボール」という遊びのうちに生き残っている。ひとりが投げる、ひとりがそれを受け取り、投げ返す。この遊びが「交換」の原型である。このやりとりは何の価値も生み出していない。だから、経済合理性を信じる人には、これはエネルギーと時間だけがむなしく費消され、ボールやグローブが少しずつ摩滅する「純然たる無為」に映る。けれども、私たちは実際には飽きることなくこのボールのやりとりに興じる。それはここに交換の本質があることを私たちが無意識のうちに知っているからである。


 相互扶助という社会のあり方について。



 いや、引用ですら疲れた……。